後藤楢根
     後 藤 楢 根 の 生 涯





「子どもと共に笑い泣き怒る」


    「 空 の 羊 」

    母 さ ま
     空 に た く さ ん の
      羊 が な ら ん で 行 っ て ま す
    き れ い な か ら だ  む く む く と
     あ か い 夕 日 を 光 ら し て
      静 か に 空 を 行 っ て ま す
    鳥 も 唄 わ ぬ  ひ ろ 野 原
     そ れ に さ び し い 夜 も 来 よ に
      も の も 云 は ず に 羊 ら は
    母 さ ま
     ど こ へ 行 く の で せ う





 この詩は後藤楢根が16歳の時発行した童謡集「空の羊」の中で発表した童謡です。




子ども時代

  楢根は明治41年、挾間町下市に10人兄弟の7番目の子として生まれました。
  家は農家で小さいころから農作業の手伝いをし、兄弟で助け合いたくましく育ちました。
  楢根が子どものころ、おもしろいエピソードがあります。たとえば、小学校一年の運動会
「タイ釣り」での話です。
  「タイ釣り」というのは、針金の丸い輪を紙に書いたタイに付け、釣竿の糸の先に付いた
かぎを使って、タイの輪にひっかけ釣り上げる競技です。
  楢根は、釣り糸が長いと釣りにくいことに気が付き、スタートすると走りながら竿を回し、
糸を巻いて短くし、すぐに釣り上げて他の人と大差をつけてゴールしたのです。
  徒競走の時でも、だれよりも早くスタートするくふうをしたという話も残っています。
  負けん気が強く、なかなか頭がよかったようです。
鯛つり競争

  さらにもう一つ、やはり一年の算数の時間での話です。
  先生が「木にカラスが五5とまっちょる。猟師が鉄砲で二羽撃ち落とした。あと何羽のこっ
ちょるかな」と聞くと、すかさず楢根は、「一羽も残っちょらん」と自信満々答えました。ところ
が「三羽」と答えた他の子を先生はほめました。
納得のいかない楢根は、「先生!鉄砲の音じカラスは逃げち一羽ものこっちょらせんで」と
言い張って叱られたということです。 小さいころからみんなと少し違ったおもしろい一面も
見せていたようです。
残ったカラスは?


文学に目覚めたころ

  楢根が文学に興味を持つきっかけとなったのは、俳句の先生をしていた父親の影響が
大きいといわれています。
  家では毎月句会が開かれていました。句会では、それぞれが作った俳句を持ちより、一
番いい句が「天」二番目を「地」三番目を「人」として選びました。
  楢根たちはどれが天、地、人になるか当てっこをしました。楢根の句「しずがやの軒端に
香る梅の花」が入選し、父親に「大人の句を聞きかじって作ったな」と叱られたそうです。
句会

  また、楢根の受け持ちの先生が作文教育に熱心な先生だったことがあげられます。
  楢根は高等科一年の時病気をして六か月ほど学校を休みました。そのせいで授業が分
からずついていけません。それでも、作文の授業だけが楢根の救いでした。大賀先生は、
古いやり方にとらわれず、自分の見たまま、感じたままを書くことを教えました。
  さらに、大神先生の教え子、先輩の松前冶作に「詩」というものを習い、詩を作ることにも
興味を覚えたのでした。
  楢根は、長い病気での休学のせいで希望する師範学校受験の学力がありませんでした。
そこで、高等科卒業後、兄のが先生をしていた南庄内尋常高等小学校で一年受験勉強を
することになりました。
  楢寿は学校で、毎日昼食の時間に世界名作物語の読み聞かせをしていましたが、自分
で物語を書きたいと思うようになりました。
  そして、試験勉強そっちのけで作った童話「麦穂の精」を全国子ども童話作品募集に応募
みごと入選を果たしてしまいました。
詩の創作


師範学校時代

  大正12年4月、楢根が15歳になった時、彼の人生を大きく変える出来事がありました。
  物語を書くことに夢中になった楢根は、師範学校の試験に落ち、予備校「予習学館」で
勉強することになりました。
  2学期のはじめ、予習学館は大道に新校舎を建設。移転して開校式がありましたが、そ
の式で、一学期の成績が優秀だった楢根は生徒代表であいさつをすることになりました。
  その席に大道の名士、後藤憲昭氏が招かれていました。
  一人娘にいい養子を探していた憲昭の目に止まった楢根は翌年後藤家に養子に行くこ
とが決まったのです。
  養子にいくことは、楢根もさんざん悩んだ末の選択でしたが、金持ちで、市議会議長など
する後藤家の養子となった楢根は、文学に打ち込むことができるようになりました。
  師範学校に通いながら、十五、十六歳の時「ふたば」「青い鳥」「空の羊」と童謡集を数々
発行しました。
  やがて、師範学校の友だちや大分県の文学仲間と「童謡詩人」という同人誌を発行する
までになりました。その後、教師になっても「童謡詩人」の発行を続け、ついに全国誌へと発
展したこともありました。
憲昭氏との出会い


教師 後藤楢根

  楢根は、文学に打ち込むとともに、熱心な熱血教師でもありました。
  今の津久見市にある小学校をかわきりに、大分市などでも教壇に立ちました。
  特に最後の勤務校となった荷揚町小学校では、野球や相撲の指導に力をいれました。
有名だった荒巻投手、玉の海も彼の教え子たちです。
  荷揚町小学校五年生の受け持ちの頃です。校区にあるお宮が主催する周辺学校対抗
相撲大会が毎年ひらかれていました。
  一度も優勝したことがない荷揚町小学校でしたが、楢根はぜひこの大会に子どもたちを
出したいと考え、「いいか、絶対に組むな、まるな、突っ張れ、いいと思った時にはたけ!」
と徹底してツッパリの練習をさせました。その結果五年生のチームはみごと優秀したので
した。
  校区の人たちは喜び、学校に立派な土俵を作ってくれました。あの玉の海もこの土俵で
相撲の稽古に励んだのです。
相撲大会

楢根の教え子たち


← 関脇玉の海  


    毎日オリオンズ
      荒巻投手→


  文学と教師の両立が楢根の夢でしたが、後藤家から文学活動への支援を打ち切られ、
学校でも、楢根の教育方針が受け入れられなかったりして、悩ましい日々を送るようにな
りました。
  続けていた「童謡詩人」の発行も23歳でやめてしまい、ついに童話作家をめざして東
京へ出る決心をしました。楢根30歳のときのことでした。
  愛する奥さん、かわいい子どもたち、故郷・・・大切なものを残しての東京行きは、苦
渋の決断でした。
上京を決意


東京でのくらし

  東京に出た楢根は、すぐに作家になれると考えていたのですが、現実はそう甘いもの
ではありませんでした。持っていたお金も無くなり、食べるものも買えない生活の中、友だ
ちに助けられて暮すありさまでした。
  生活のため、とにかく代用教員の仕事を見つけ、やがて毎日新聞社に勤めることがで
きました。
  毎日新聞では、子どもの生活を物語にした映画を作ったり、それを学校などに貸し出し
たりする仕事をしながらひまひま童話を書いていました。
貧しい日々

  このころ、童話「光に立つ子」 小説「村童日記」 童謡集「月夜の棉畑」 童話「黒潮の
子」などを次々出版しています。この「黒潮の子」は最初に赴任した保戸島の小学校の子
どもたちがモデルになっているといわれています。
  「光に立つ子」「ヨイコニヨイユメ」「僕等は国の子」は文部省推薦図書になり、新聞社を
やめた楢根はやっと童話作家になれました。
  ところが、不幸なことに、世の中は第二次世界大戦へと突き進んでいたのです。 昭和
20年8月、やっと戦争は終わりましたが、東京大空襲で家は焼かれ、童話を書く仕事も
無くなってしまいました。
  戦時中、楢根は疎開することなく活動を続けていたため、軍の報道班員として現地の
ルポをしたり、文部省推薦図書に選ばれた作品を書いたりしたことに深い後悔の念をい
だくようになっていました。無気力に畑仕事をする毎日でした。
畑仕事の毎日

  そんなある日、近くの焼け跡で進駐軍のジープが通るのを待つ子どもたちを見ました。
  「ハロー」と子どもたちが叫ぶと、アメリカ兵がキャンディを投げます。それを奪い合う子
どもたちのすさまじさ、そのあさましい姿をみて楢根は悲しくなりました。
  未来をになう子どもたちがこのままでは日本はだめになる。何とか自分のできることを
やらねばと楢根は決心したのです。
米兵に群がる子どもたち


児童文化の振興に立ち上がる

  終戦から一年も経たない昭和21年5月、日本童話会を立ち上げた楢根は、将来児童
作家として活躍する新人を育てることになる、雑誌「童話」の第一号を発行しました。
  楢根はこの会の会長になり、一時発行部数は一万部におよび、会員も3,500人を超
えました。 しかし、資金不足や楢根の健康障害など苦労の連続でした。
  そんな中でも、楢根は自分の家を売り、賞でもらったお金は全部、活動につぎ込み、
生涯借家生活を貫き、児童文化の振興にまい進したのです。
日本童話界を席巻


  楢根の作った日本童話会によって、皆さんもよく知っている有名な童話作家、「ずっこけ
三人組」を書いた那須正幹や、「とびうおのぼうやはびょうきです」のいぬいとみこ、「100
ばんめのぞうがくる」の佐藤さとるなど、数多くの作家が育っていきました。
  児童文学を新しい形に創りあげたり、童話作家の育成などに努めた功績が認められ、
昭和41年5月、「第一回モービル児童文化賞」、昭和43年4月には「第二回吉川英治賞」
を受賞しました。この賞の受賞記念碑が現在はさま未来館の庭に立っています。
  現在、児童文化の父 後藤楢根は、富士霊園にある「日本文学者の墓」に、著名な文学
者たちと静かに眠っています。

          本文は後藤楢根の甥にあたる二宮寿先生(挾間町下市在住)の作です。


「今日の児童文化が明日の祖国文化をつくる」  後藤楢根



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