悲運の知将 「狭 間 鎮 秀 物 語

 鎮秀(しずひで)は、高長谷山(たかはぜやま)から、春の霞に煙る挾間の里を眺めていた
 眼下には大分川の清流がとうとうと流れ、狭間の村々を緑にうるおしている。遠くの田
んぼや川岸に菜の花が咲き乱れ、近くの山々には山桜も見え、春らしさを見せていた。

 すぐ南の方には宇曽山(うぞうさん)、谷の方角には妙音山(みょうおんざん)が高く見え、
西には大将軍山
(だいじょうごんやま)がみえる。北を向けば、豊後富士とよばれる由布山、
その隣には優しい姿の鶴見山、そして郷土の高崎山が望まれた。          

 鎮秀は挾間の殿様、狭間鑑秀(あきひで)の長男として生まれ、もう十二歳になる。活動
的な元気な少年であった。                           

 今から四百五十年ほど前の挾間は、大友宗麟(府内=大分の大友宗麟は、九州六カ国を治める大
大名である)
がいて、守られていたとは言うものの、いつ山口の毛利氏や鹿児島の島津氏が
攻めてくるか分からないような状態であった。                  

 鎮秀はこの頃から、狭間の地を守り、豊かで皆が元気に暮らせる里にしたいと思うよう
になっていた。また、宗麟の「鎮秀よ、お前はなかなか勇気のある利発な子のようだ。狭
間をしっかり守れよ」という言葉を信じ、大友家に仕えていくのが一番だと考えていた。
 もともと狭間家は大友家とは親戚で、大友の二代目の大将であった大友親秀
(ちかひで)
の四男が狭間氏のはじまりである。                       

魚 と り

 いつも十人ばかり仲間をつれ歩いていた鎮秀は、暖かくなった堂尻(どうじり)川に行っ
て、魚とりをすることになった。                        

 鬼崎の川まで来て見ると、鎮秀らより大きな子どもたちが、二十人ばかり川に入って魚
とりをしていた。魚がよく取れるこの川は、稙田の子どもたちが魚とりにやってきて、よ
く争いになる場所であった。                          

 鎮秀たちは、なぜ俺たちの川に来て魚とりをするのかと苦々しく思った。しかし相手は
倍ぐらいいるし、大きい子どもばかりなので、まともに向かっては負けそうだ・・・。

 そこで、鎮秀が皆を川原の竹やぶの陰に呼んだ。                
「いいか、稙田のやつどもに挾間の魚を取られてたまるか、追っ払うぞ」      
「どうするんか。相手は大きいぞ」                       
「二人組になって肩車をして、背をおおきく見せるんじゃ。そして、こりゃーと大声を出
すんじゃ。と同時に、大きな石を川にドボン ドボンと投げ込め。そうすれば、大人が来
たと思って、恐れて逃げるはずじゃ」                      

「石を集めろ。それまでは誰も顔を出すな」                   
「あつめたか、はじめるぞ!」                         
「こりゃー、こりゃあー!」                          
「こりゃあー。どこん魚をとりよんのかあー!」                 



 と一斉に大声をかけると、稙田の子どもたちは、大きな声に驚き、ドボン、ドボン、と
大きな音もするので、狭間の大人たちがやってきたと思い、後ろも見ずに逃げ帰った。

 鎮秀たちは勝ちほこって「ヤッター、ヤッター、オウー、オウー」と勝どきを上げて喜
んだ。鎮秀はこの頃から、集まる子供たち皆を指揮して戦う知恵のある子どもであった。
鎮秀の「鎮」は、当時の大友の御大将であった大友宗麟の名前が、義鎮
(よししげ)であっ
たので、その一字をもらったのである。                     


日向土持城(ひゅうがつちもちじょう)を落とす

 天正六年(一五七八)三月。狭間鎮秀は、もう立派な若武者になっていた。    
その頃、日向(宮崎県)の土持氏は大友氏の家来であったが、鹿児島の島津氏に攻められ、
島津氏の家来になってしまった。                        

 こうなると、今まで大友氏が支配していた宮崎が、鹿児島の島津氏の支配下になってし
まう恐れがあるので、大友氏は日向の土持城を攻めて、この土地を大友氏の支配に取り返
さねばならない。                               

 天正六年、狭間鎮秀率いるたくさん兵が、大友の大殿の軍団に入って、はるばる日向へ
と向かった。                                 

 このときの大友氏の軍団は勢いがよく、各地から集まった兵の数は約三万にもおよんで
いた。宮崎につくと大分県に近い城である「土持城」を攻めた。          

 狭間鎮秀と勘解由(かげゆ)も一緒に家来を連れて参加した。           
 土持氏はところどころに小さな出城を持っていたが、大友軍は大勢であり、九州各地か
ら加勢に来た軍団もあって次々に城を落とし、土持氏の城である松尾城に攻めかかった。
土持城は小高い丘の上にあり、なかなか守りが堅く、落ちそうになかった。     

 鎮秀は昼間、城の周りを見て歩き、攻め込みやすいところを一箇所だけ探しあてた。
 狭間軍は、朝早く夜の明けない暗いうち、城の裏手に回りこっそりと城に近づき、昼間
見つけた城の小道の坂を登って、一気に城の中へとなだれ込んだ。         

 土持の兵は突然の攻めにびっくりして右往左往するばかりで、程なく敵兵は、戦う気力
もなく逃げていった。                             

 このように狭間氏は大友軍の先頭に立って勇敢に戦い、この土持城を落とすことが出来
た。この活躍により、大友の大将大友義統から感謝状をもらった。その内容は、   

「土持の城を落としたとき、自分自身で城をぶんどったそうな。骨折りなことであった。
これからもいっそう頑張ってくれ。機会を見てお祝いをしよう」          

という内容であった。                             
 土持城は狭間鎮秀等の働きによって、思ったより簡単に落ちた。このことに気をよくし
た大友軍は、十月、さらに宮崎平野まで攻め入った。               

 ところが、高城(たかじょう)を取り囲み、相手を城に閉じ込めて長らく戦っていたとき
までは良かったが、しばらくすると薩摩軍の本隊が鹿児島から到着し、おおきな負けを喫
してしまった。                                

 この戦をきっかけに大友軍は負けはじめ、もう一度立て直そうと耳川まで引き上げてき
た。このとき逃げ足だった大友軍に、追い討ちをかけるよう薩摩軍が襲いかかってきた。
 狭間氏の勘解由が川を渡ろうとしたとき、図らずも後ろから弓で射られ、傷ついたとこ
ろを敵にうたれた。背中に矢を受けた勘解由に鎮秀は、              

「大丈夫だ。敵はおれが引き受けた。おまえは避難せよ」             
と庇い、攻めくる敵に立ち向かった。                      
 鎮秀らは大刀で数人を切り、追い払いつづけたが、敵の人数は多く、さらに十一月の耳
川の水は冷たく、狭間の兵はだんだん体が動かなくなった。            

 大友軍はこの耳川で多くの兵が戦死し、命からがら大分へ向かって死の行軍を続けた。
食料や水もなく、雨の中をただひたすらに、自分のふるさとへ帰った。大友軍にとって、
こんな大負けをしたことは今まで無かったので、みな気持ちが落ち込んでしまった。 

 大友宗麟も慌てふためいて逃げ帰り、自分が神のように信仰していた、キリスト教の神
父たちをさえ置き去りにしてしまう有様だった。                 

 その中に狭間鎮秀もいた。ともに挾間から来た勘解由と、それにたくさんの家来たちは
もう帰りの列の中に無く、さびしい行進であった。                




 それから六年たった天正十四年(一五八六)十月。大友氏を強くないとみた島津軍は、
大分へ攻め込んできた。                            

 天正十四年十一月十三日。狭間鎮秀は、多くの武士たちと一緒に上野の大友館に集まり
総大将の大友義統
(よしむね)を守りながら、島津軍がいつ来るかいつ来るかと不安のうち
に待っていた。                                

 そこに、戸次からの注進がはいった。                     
「戸次川原で多くの大友軍は破れ、四国からこられた長曾我部信親(ちょうそかべのぶちか)
戦死。その他多数の四国勢戦死」と告げた。                   
 義統は、「これは一大事じゃ。すぐに、高崎山に避難じゃ。ここにいては危ない」と立
ち上がって叫んだ。                              

 家来は、「それはいけません。武士たるもの、自分たちの住んでいるこの府内で、一戦
もせずに逃げてしまっては笑いものになります」と申しあげた。          

「そんならここに踏みとどまって、勝つというのか!」              
「そんな事を言っているのではありません。戦はやってみなければわかりません。たとえ
負けるようなことがあっても、逃げて行ったのでは、後の世の笑いものになります」 

「・・・では、今夜はここで戦うとしよう」                   
 鎮秀たち重臣は、総大将の義統の戦う姿勢の無さにがっかりした。        
 それでも鎮秀は、「大将だいじょうぶです。私どもが府内のまちをきっと守ってみせま
すから」と大友義統を勇気づけ、上野の館に踏みとどまらせた。鎮秀たちの言葉により義
統は、いくらか落ち着きを見せた。                       

 十二月十三日。薩摩軍は島津家久(いえひさ)を大将に、府内に総攻撃をかけてきた。
 府内のまちはほとんどの所で火事が起こり、大友軍も高崎城に避難せざるを得なくなっ
た。                                     

 総大将の義統は、島津軍の焼き討ちに恐れをなし、府内から早く離れたいばかりであっ
た。義統は、                                 

「早く高崎山へ行こう」と落ち着きをなくし、苛立った。             
 家来は、「お待ちください。御大将だけが早く行かれても、家来たちにも家族がありま
すから、守らねばなりません」と、ひたすら考え直すよう進言した。        

 義統は怒り、「もうよい。そんな余裕はない!」とついに退却することを決めてしまっ
た。                                     

 こうして、鎮秀たち狭間の衆、庄内の大津留氏の衆、湯布院の奴留湯氏の衆が高崎山に
集まった。                                  

 大将義統は、命からがら敵の中を避難してきた臼杵という武士に対して      
「ああ疲れた、ここまで避難してくればもう大丈夫じゃ。わしが日ごろ仲良くしておる女
を連れてまいれ」というのである。                       

 臼杵はびっくりして、                            
「このような時になにを申されるのですか。私は、府内に残した家族が、薩摩軍につかま
るのはかわいそうだから、母も、嫁も、娘も全部殺して家に火をつけてきたのですぞ。私
だけではありません。同じようなことをしてきた者がたくさんおります」と言った。 

 それに対して義統は、                            
「わしの苦労などわかるまい。さあ、わしの女を連れて来い。これは命令じゃ!」と言っ
たのだ。                                   

 この話を聞いた多くの武士たちは、この大将にはついて行けないと、見切りをつけ、大
友の軍から逃げていく武士も数多くいた。                    

 このとき鎮秀は一人、しきりに考えることがあった。              
「義統と言う大将に、この先ずっとついていって大丈夫だろうか。大将としての勇気や根
性、戦争の仕方がどうも危なっかしい。自分たち親子は、どうしても、狭間氏の祖先の墓
がある挾間に長く住みたい。そして農民を守って、豊かな村づくりをしたい」    

そう思ってやまなかった。                           
 そうこうしていると、庄内の大津留氏から、「御大将は宇佐の竜王城(りゅうおうじょう)
に避難する」と言う話を聞いた。                        
 鎮秀は、御大将について竜王城に行くか、狭間に残って挾間の土地や農民を守るか、悩
みに悩んだ。狭間を守るには、今すぐ帰らなければ、薩摩兵に土地も住民もとられてすべ
てなくなってしまう。最後には、先年、臼杵の丹生島城
(にゅうじまじょう)に宗麟を訪ねた
際に、                                    

「鎮秀よ。お前は知恵も勇気もある武士じゃ。狭間を守ってよう戦え。困った時にはわし
が助けてやるぞ」と言ってくれたことを思い出し、狭間を守ろうという気持ちになった。
 鎮秀率いる挾間軍一行は、大友の御大将と分かれて狭間に帰った。狭間に帰ると、すぐ
北方の妙見
(みょうけん)神社に戦勝祈願のお参りをして、             
「妙見様、われらをお守りください」と祈った。                 

権現岳城(ごんげんだけじょう)の戦い

 高崎山城で御大将義統に別れを告げ、狭間の城である向原に帰った狭間鎮秀は、落ち着
く暇はなかった。薩摩軍が攻めてくることは、火を見るより明らかであった。    

 向原の狭間城は、北側を黒川の崖に守られ、敵の侵入を防いでくれるとは言うものの、
東と西は開いていて、敵から守るのは難しいと思われた。             

 必ず狭間を守る!という気持ちから、鎮秀は庄内の龍原(たつはる)にある権現岳城に立
てこもることにした。薩摩軍が挾間に入ってきたならば、家は焼かれ、村人も捕らえられ
るのは目に見えていた。鎮秀は、家族も全部連れて権現岳城に立てこもった。    

 権現岳城は猿渡(さわたり)川に囲まれ、中心は小高い山状、回りの高さは五十メートル
もあろうかという絶壁で、敵軍の攻めにくい山城であった。敵が攻めてきても、この猿渡
川や岩の絶壁に阻まれて、山城に登ることは出来ない。とはいえ、敵は四千人こちらはわ
ずかに四百人だ。                               

 狭間方は一生懸命に、城を守る闘いの準備をした。               
 鎮秀は、部下の馬場庄蔵・向井藤蔵・仲元寺甲斐之助・平野馬之丞・三ヶ尻長門・園田
六郎・二宮源助・宮崎大学、須美太郎右衛門・平井将監などに命じて、大木や大石を権現
山に運び上げさせ、戦の準備をした。                      

 島津軍は、直入・玖珠・大分郡方面から島津義弘を大将とした二万五千の軍が、海部郡
・大野郡・府内のほうからは島津家久が、二万余りの兵で攻め込んできた。     

 権現岳城に攻めよせてきた島津軍は四千人と多く、権現岳西の龍原の野は、薩摩の兵で
真っ黒に埋めつくされた。対してこちらは四百人。勝敗は明らかのように見えた。  

 敵軍は、ワーワーとときの声を上げ、何度も何度も城めがけて攻めてくる。こちらも城
から敵をめがけて矢を放ちつづけた。                      




 薩摩軍は猿渡川を渡ろうとするが、狭間軍は山の高いところから、渡ってくる兵めがけ
て矢を射るので、川を渡ることが出来ない。そこに狭間勢が切り込んで行き、敵兵を切り
つけた。敵兵の血で猿渡川の水は真っ赤に染まった。               

 それでも何とか川を渡ってきた薩摩軍が権現岳を登りはじめると、鎮秀が待ってました
とばかりに合図をすると、狭間兵は登ってくる兵をめがけて、一斉に大きな石や大木を投
げ落とした。                                 

 昼間攻めるのに失敗した薩摩軍は、こっそりと川を渡り、夜討ちをかけてきた。敵が明
日の夜、夜討ちをかけることが分かったとき、狭間兵は、権現岳城を取り巻く猿渡川を、
夜中に棒を持って渡り、ざぶざぶと大きな水音をさせた。その音に、狭間兵がやってきた
!と思った薩摩兵は、いちもくさんに逃げた。                  

 しかし、負傷するのは敵ばかりではなく、狭間側にも犠牲者が出た。重臣二宮源助は、
夜討ちをかけられた時に怪我をして、それがもとで戦死した。           

 一ヶ月もの長い戦いが続いたが、勝負はつかなかった。             
 四千人と四百人の戦いで、城がまだ落ちていないのは鎮秀の知恵であったし、それにも
勝る、狭間を守ろうとする鎮秀の情熱であったが、一ヶ月も戦っていると水や食量が少な
くなり、狭間の兵の中には具合の悪くなるものが多くなった。           

 権現岳の西の賀須懸(かすか)ケ原にとどまって、狭間を攻めていた薩摩軍の大将新納久
(にいろひさまさ)は、使いをよこして、                    
「この戦はなかなか勝負がつかない。これ以上はお互いに犠牲が増えるばかりなので、一
応講和を結ぼうではないか」ともちかけてきた。                 

「いいや、そんな事は考えていない。お断りする」と狭間は断った。        
すると薩摩は、「まずは話し合ってみようではないか」と再度言ってきた。     
「そんならどんな内容にするか条件を言ってみよ」                
「条件は、狭間氏の長男、塩松丸を人質に出すこと」               
「塩松様は、狭間の長男ぞ。大切な長男を人質に出すわけにはいかん。そちらも、薩摩の
大将である新納の長男を出すならそうしよう」                  

「新納の長男は、鹿児島にいてここにはいない」                 
「それなら、かわりに兵隊十人を人質として出せ」                

「そんな、人質として釣り合いが取れない講和は受けるな」と鎮秀は怒ったが、考えてみ
ると、大勢の薩摩軍に取り囲まれ、いつかは負け戦になりそうな気配ではあった。鎮秀は
しかたなく、講和を受けようと言った。                     

 塩松丸の代わりを人質として出すわけにはいかない。人質は場合によっては殺されるか
もしれない。鎮秀は、どうしようかと考えこんでいた。              

 そのとき、二宮源助の弟庄次郎が、                      
「私と塩松丸様は、ちょうど年かっこうも同じで、どちらがどうかわかりません。私を人
質に行かせてください」と申し出た。                      

 びっくりした鎮秀は、                            
「お前の兄の源助はすでに死んでしまった。お前を行かせるわけにはいかない」と庄次郎
を抑えた。                                  

「私は、兄の敵討ちのつもりで人質に出たいのです。塩松丸様は狭間の大事なあと取りで
す。どうか私に行かせてください」                       

「・・・そこまでいうなら、行ってくれるか。気をつけて行ってきてくれ、お前を見殺し
にするようなことはしない」と言って庄次郎を人質として行かせ、薩摩軍からは人質十人
を受け取って、上市の龍祥寺の横に人質を入れるおりを作ってその中に入れ、講和を結ん
だ。今後は一切狭間と薩摩軍は戦わないと。                   

 そのあとしばらくは、狭間氏と薩摩軍の間での戦はなく、穏やかな日々が続いた。とこ
ろが、この講和を結んだことを、遠く宇佐にいる武士たちの中には快く思っていない者が
いた。                                    

「狭間はおかしいじゃないか、薩摩を攻めると言いながら講和を結んで仲良くするとはけ
しからん。薩摩の味方になったも同じだ」                    

「われらはこの宇佐まではるばる、大友の殿をお守りしてやってきた。そのために自分の
ふるさとは、薩摩軍に攻め取られてしまった。狭間氏はうまいことをしたものじゃ」 

「大友の御殿様、狭間氏は、薩摩に味方していることは間違いないです」      
「狭間は殿を裏切ったのです。裏切り者は征伐すべきです。このままでは、志気にかかわ
ります」                                   

「殿、思い切って征伐してください」                      

首九つの贈り物

 義統は、これらのことばを真に受け、                     
「狭間氏は、なんと言うことだ。あのにくき敵、薩摩と講和を結ぶとはけしからん。もう
味方とは思わん」と激怒した。                         

 義統の周りにいた武将たちもこうなると、口を揃えて、             
「そうだ、裏切り者だ!」と言い出した。狭間氏はこうして疑いを受けるようになった。
 この連絡を受けた狭間鎮秀は驚いて、                     

「自分は薩摩の味方になったわけではないのに、疑われるのは残念だ」と悔しがった。
 なんとか御大将の誤解をといて、大友の親戚として仲良くしてもらいたいと思った鎮秀
は、主だった家来を呼んで、誤解を解くにはどうしたらよいか相談した。そして、あるこ
とを決めた。                                 

 三月のまだ寒い朝、狭間鎮秀軍の精鋭三十名ばかりが、鬼瀬の陣屋の山の中腹にじっと
潜んで、薩摩の一軍が庄内から府内へやってくるのを待っていた。         

 島津軍は、狭間氏とは既に講和を結んでいるので、狭間氏から攻められる心配はないと
安心しきっており、島津一軍は、久しぶりの平和な日々の中で、明るい表情で陣屋の山に
差しかかった。とその時、狭間氏の兵は無言で、一斉に飛び出し、斬りかかった。  

 薩摩兵はびっくりして                            
「お前らは狭間の兵ではないか。おれたちは薩摩兵でごわすぞ」          
と叫んだが聞き入れず、鋭い目をして、薩摩兵に切りかかった。そして、狭間軍は島津兵
の首九つを討ち取った。                            

「これでよし。宇佐の竜王城にいる大友義統様へのいい土産が出来た」       
「この薩摩兵の首九つをもっていけば、大将も島津に味方したのではないと信じてくれる
ことだろう」                                 

 鎮秀は、宇佐の竜王城の大将へ九つの首を持っていった。            
「島津兵の首を取ってまいりました。狭間は殿を裏切るようなことはありません」  
「おお、そうか。よくやった。やはり狭間氏はわが味方じゃ」           
とほめ、感謝状もくれた。鎮秀の智恵により、狭間家と大友家が袂を分かつ危機は避けら
れたのである。                                

 しばらくすると戦の時代は、天下人豊臣秀吉の命により、大きく変化するときが来た。
 秀吉の命令は、「薩摩軍は、自分の国である薩摩にすぐに帰れ。人質や捕虜にした人間
は全部もとの国に返せ」というものであった。挾間と薩摩は人質を交換していたので、お
互いに戦争をやめて人質を返す事になった。                   

 そのことで鎮秀には困ることがあった。それは人質の処置について、臼杵の丹生島城に
いる大友宗麟に、相談したところ、                       

「どうでもよい。首をはねてしまえ」と言われたので、首をはねてしまっていた。返そう
にも人質はもう一人もいない。返す時も交換となると、大事なこちらの人質、二宮庄次郎
は返してもらえなくなる。                           

 果たして人質交換の日。鎮秀は、人質を返す交換の場に出て堂々と言った。    
「人質十人は台風の夜、雨の中を逃げ出した。おそらく薩摩のふるさとに帰ったのであろ
う」と、相手に伝えた。                            

 人質は返さず、こちらの人質である庄次郎だけ受け取って帰った。鎮秀は、このときも
皆から、知恵のある殿様だと尊敬された。                    

 ここまでは何とか鎮秀の知恵で切り抜けてきたが、ふるさとを出て、宇佐の竜王城まで
大友の御大将についてきた武将たちは、やはり狭間鎮秀のことを良く言わなかった。 

「なぜ、大将からはなれて、自分の国に帰った者が許されるのか」「ふるさとを捨てて、
こんな遠くまで来る事はなかった」「御大将が狭間氏を許すのはおかしい」「狭間氏は、
やっぱり、殿を裏切っていたのだ」と言うようになった。             

 家来の武将から「狭間鎮秀を討つべし。そうだ討つべし」との声が大きくなり、御大将
の大友義統も鎮秀を追うことになった。                     

 鎮秀は、幾多の手柄を立てた人気のある武将から、一転して追われる立場の武将となっ
て、逃げなければならなくなった。そうなるといつも同じで、家来はだんだんよそに行く
ものが多くなり、もはや、昔からいた重臣だけとなった。             

 鎮秀は数十人の家来を連れ、狭間を出発した。庄内の山の中を、狭間小挾間から柚木、
東山、ねじ山を通り、湯布院についたとき、追っ手が激しく攻めかかってきた。   

 いよいよ最後かという刹那、鎮秀はいろいろなことが思い出されたのである。   
『自分はこれまで大友氏に対して一生懸命尽くした。ふるさと狭間の土地や人々を守るた
めに、身を粉にして働いた。日向の土持城では一番に城に乗り込んで城をぶん取った。宮
城戦の帰りには大切な弟を死なせてしまった。決して大友に背いて薩摩に加勢したことは
なかった。それをどうして、裏切ったなどというのか。もし、義統様が宗麟様のようなお
方であれば、自分のこの行動を分かってくれるはずだ』              

 と残念に思いながら、大友の軍の攻め手の剣を防いでいる。無念の思いが、胸に突き上
げてきて、鎮秀には刀を握る手に力が入らなかった。               

 ついに、多くの敵軍にとりかこまれ、不意に肩口を切りつけられた鎮秀は、がっくりと
前のめりに倒れ、無念の戦死をした。                      

 この時、天正十六(一五八七)年六月二日であった。              



 狭間の人たちはこのことを噂に聞いて、                    
「どうしてあの鎮秀様が殺されなければならなっかたのか」と嘆き悲しんだ。大友義統さ
えしっかりした判断を下せば、鎮秀は死ぬことはなかったと。           


 今は湯布院と挾間に狭間氏の墓がある。                    
供養塔に至っては、池ノ上の慶福寺(けいふくじ)・龍祥寺墓地・向原の光源地蔵庵と三
つある。それ程に、狭間鎮秀は尊敬される人物であった。             



                           文 挾間町歴史民俗資料館 
                                館長 二宮 修二

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