悲運の知将 「狭 間 鎮 秀 物 語」
鎮秀(しずひで)は、高長谷山(たかはぜやま)から、春の霞に煙る挾間の里を眺めていた。
眼下には大分川の清流がとうとうと流れ、狭間の村々を緑にうるおしている。遠くの田
んぼや川岸に菜の花が咲き乱れ、近くの山々には山桜も見え、春らしさを見せていた。’
すぐ南の方には宇曽山(うぞうさん)、谷の方角には妙音山(みょうおんざん)が高く見え、
西には大将軍山(だいじょうごんやま)がみえる。北を向けば、豊後富士とよばれる由布山、
その隣には優しい姿の鶴見山、そして郷土の高崎山が望まれた。 ’
鎮秀は挾間の殿様、狭間鑑秀(あきひで)の長男として生まれ、もう十二歳になる。活動
的な元気な少年であった。 ’
今から四百五十年ほど前の挾間は、大友宗麟(府内=大分の大友宗麟は、九州六カ国を治める大
大名である)がいて、守られていたとは言うものの、いつ山口の毛利氏や鹿児島の島津氏が
攻めてくるか分からないような状態であった。 ’
鎮秀はこの頃から、狭間の地を守り、豊かで皆が元気に暮らせる里にしたいと思うよう
になっていた。また、宗麟の「鎮秀よ、お前はなかなか勇気のある利発な子のようだ。狭
間をしっかり守れよ」という言葉を信じ、大友家に仕えていくのが一番だと考えていた。
もともと狭間家は大友家とは親戚で、大友の二代目の大将であった大友親秀(ちかひで)
の四男が狭間氏のはじまりである。 ’
魚 と り
いつも十人ばかり仲間をつれ歩いていた鎮秀は、暖かくなった堂尻(どうじり)川に行っ
て、魚とりをすることになった。 ’
鬼崎の川まで来て見ると、鎮秀らより大きな子どもたちが、二十人ばかり川に入って魚
とりをしていた。魚がよく取れるこの川は、稙田の子どもたちが魚とりにやってきて、よ
く争いになる場所であった。 ’
鎮秀たちは、なぜ俺たちの川に来て魚とりをするのかと苦々しく思った。しかし相手は
倍ぐらいいるし、大きい子どもばかりなので、まともに向かっては負けそうだ・・・。’
そこで、鎮秀が皆を川原の竹やぶの陰に呼んだ。 ’
「いいか、稙田のやつどもに挾間の魚を取られてたまるか、追っ払うぞ」 ’
「どうするんか。相手は大きいぞ」 ’
「二人組になって肩車をして、背をおおきく見せるんじゃ。そして、こりゃーと大声を出
すんじゃ。と同時に、大きな石を川にドボン ドボンと投げ込め。そうすれば、大人が来
たと思って、恐れて逃げるはずじゃ」 ’
「石を集めろ。それまでは誰も顔を出すな」 ’
「あつめたか、はじめるぞ!」 ’
「こりゃー、こりゃあー!」 ’
「こりゃあー。どこん魚をとりよんのかあー!」 ’
と一斉に大声をかけると、稙田の子どもたちは、大きな声に驚き、ドボン、ドボン、と
大きな音もするので、狭間の大人たちがやってきたと思い、後ろも見ずに逃げ帰った。’
鎮秀たちは勝ちほこって「ヤッター、ヤッター、オウー、オウー」と勝どきを上げて喜
んだ。鎮秀はこの頃から、集まる子供たち皆を指揮して戦う知恵のある子どもであった。
鎮秀の「鎮」は、当時の大友の御大将であった大友宗麟の名前が、義鎮(よししげ)であっ
たので、その一字をもらったのである。 ’
日向土持城(ひゅうがつちもちじょう)を落とす
天正六年(一五七八)三月。狭間鎮秀は、もう立派な若武者になっていた。 ’
その頃、日向(宮崎県)の土持氏は大友氏の家来であったが、鹿児島の島津氏に攻められ、
島津氏の家来になってしまった。 ’
こうなると、今まで大友氏が支配していた宮崎が、鹿児島の島津氏の支配下になってし
まう恐れがあるので、大友氏は日向の土持城を攻めて、この土地を大友氏の支配に取り返
さねばならない。 ’
天正六年、狭間鎮秀率いるたくさん兵が、大友の大殿の軍団に入って、はるばる日向へ
と向かった。 ’
このときの大友氏の軍団は勢いがよく、各地から集まった兵の数は約三万にもおよんで
いた。宮崎につくと大分県に近い城である「土持城」を攻めた。 ’
狭間鎮秀と勘解由(かげゆ)も一緒に家来を連れて参加した。 ’
土持氏はところどころに小さな出城を持っていたが、大友軍は大勢であり、九州各地か
ら加勢に来た軍団もあって次々に城を落とし、土持氏の城である松尾城に攻めかかった。
土持城は小高い丘の上にあり、なかなか守りが堅く、落ちそうになかった。 ’
鎮秀は昼間、城の周りを見て歩き、攻め込みやすいところを一箇所だけ探しあてた。’
狭間軍は、朝早く夜の明けない暗いうち、城の裏手に回りこっそりと城に近づき、昼間
見つけた城の小道の坂を登って、一気に城の中へとなだれ込んだ。 ’
土持の兵は突然の攻めにびっくりして右往左往するばかりで、程なく敵兵は、戦う気力
もなく逃げていった。 ’
このように狭間氏は大友軍の先頭に立って勇敢に戦い、この土持城を落とすことが出来
た。この活躍により、大友の大将大友義統から感謝状をもらった。その内容は、 ’
「土持の城を落としたとき、自分自身で城をぶんどったそうな。骨折りなことであった。
これからもいっそう頑張ってくれ。機会を見てお祝いをしよう」 ’
という内容であった。 ’
土持城は狭間鎮秀等の働きによって、思ったより簡単に落ちた。このことに気をよくし
た大友軍は、十月、さらに宮崎平野まで攻め入った。 ’
ところが、高城(たかじょう)を取り囲み、相手を城に閉じ込めて長らく戦っていたとき
までは良かったが、しばらくすると薩摩軍の本隊が鹿児島から到着し、おおきな負けを喫
してしまった。 ’
この戦をきっかけに大友軍は負けはじめ、もう一度立て直そうと耳川まで引き上げてき
た。このとき逃げ足だった大友軍に、追い討ちをかけるよう薩摩軍が襲いかかってきた。
狭間氏の勘解由が川を渡ろうとしたとき、図らずも後ろから弓で射られ、傷ついたとこ
ろを敵にうたれた。背中に矢を受けた勘解由に鎮秀は、 ’
「大丈夫だ。敵はおれが引き受けた。おまえは避難せよ」 ’
と庇い、攻めくる敵に立ち向かった。 ’
鎮秀らは大刀で数人を切り、追い払いつづけたが、敵の人数は多く、さらに十一月の耳
川の水は冷たく、狭間の兵はだんだん体が動かなくなった。 ’
大友軍はこの耳川で多くの兵が戦死し、命からがら大分へ向かって死の行軍を続けた。
食料や水もなく、雨の中をただひたすらに、自分のふるさとへ帰った。大友軍にとって、
こんな大負けをしたことは今まで無かったので、みな気持ちが落ち込んでしまった。 ’
大友宗麟も慌てふためいて逃げ帰り、自分が神のように信仰していた、キリスト教の神
父たちをさえ置き去りにしてしまう有様だった。 ’
その中に狭間鎮秀もいた。ともに挾間から来た勘解由と、それにたくさんの家来たちは
もう帰りの列の中に無く、さびしい行進であった。 ’
それから六年たった天正十四年(一五八六)十月。大友氏を強くないとみた島津軍は、
大分へ攻め込んできた。 ’
天正十四年十一月十三日。狭間鎮秀は、多くの武士たちと一緒に上野の大友館に集まり
総大将の大友義統(よしむね)を守りながら、島津軍がいつ来るかいつ来るかと不安のうち
に待っていた。 ’
そこに、戸次からの注進がはいった。 ’
「戸次川原で多くの大友軍は破れ、四国からこられた長曾我部信親(ちょうそかべのぶちか)
戦死。その他多数の四国勢戦死」と告げた。 ’
義統は、「これは一大事じゃ。すぐに、高崎山に避難じゃ。ここにいては危ない」と立
ち上がって叫んだ。 ’
家来は、「それはいけません。武士たるもの、自分たちの住んでいるこの府内で、一戦
もせずに逃げてしまっては笑いものになります」と申しあげた。 ’
「そんならここに踏みとどまって、勝つというのか!」 ’
「そんな事を言っているのではありません。戦はやってみなければわかりません。たとえ
負けるようなことがあっても、逃げて行ったのでは、後の世の笑いものになります」 ’
「・・・では、今夜はここで戦うとしよう」 ’
鎮秀たち重臣は、総大将の義統の戦う姿勢の無さにがっかりした。 ’
それでも鎮秀は、「大将だいじょうぶです。私どもが府内のまちをきっと守ってみせま
すから」と大友義統を勇気づけ、上野の館に踏みとどまらせた。鎮秀たちの言葉により義
統は、いくらか落ち着きを見せた。 ’
十二月十三日。薩摩軍は島津家久(いえひさ)を大将に、府内に総攻撃をかけてきた。’
府内のまちはほとんどの所で火事が起こり、大友軍も高崎城に避難せざるを得なくなっ
た。 ’
総大将の義統は、島津軍の焼き討ちに恐れをなし、府内から早く離れたいばかりであっ
た。義統は、 ’
「早く高崎山へ行こう」と落ち着きをなくし、苛立った。 ’
家来は、「お待ちください。御大将だけが早く行かれても、家来たちにも家族がありま
すから、守らねばなりません」と、ひたすら考え直すよう進言した。 ’
義統は怒り、「もうよい。そんな余裕はない!」とついに退却することを決めてしまっ
た。 ’
こうして、鎮秀たち狭間の衆、庄内の大津留氏の衆、湯布院の奴留湯氏の衆が高崎山に
集まった。 ’
大将義統は、命からがら敵の中を避難してきた臼杵という武士に対して ’
「ああ疲れた、ここまで避難してくればもう大丈夫じゃ。わしが日ごろ仲良くしておる女
を連れてまいれ」というのである。 ’
臼杵はびっくりして、 ’
「このような時になにを申されるのですか。私は、府内に残した家族が、薩摩軍につかま
るのはかわいそうだから、母も、嫁も、娘も全部殺して家に火をつけてきたのですぞ。私
だけではありません。同じようなことをしてきた者がたくさんおります」と言った。 ’
それに対して義統は、 ’
「わしの苦労などわかるまい。さあ、わしの女を連れて来い。これは命令じゃ!」と言っ
たのだ。 ’
この話を聞いた多くの武士たちは、この大将にはついて行けないと、見切りをつけ、大
友の軍から逃げていく武士も数多くいた。 ’
このとき鎮秀は一人、しきりに考えることがあった。 ’
「義統と言う大将に、この先ずっとついていって大丈夫だろうか。大将としての勇気や根
性、戦争の仕方がどうも危なっかしい。自分たち親子は、どうしても、狭間氏の祖先の墓
がある挾間に長く住みたい。そして農民を守って、豊かな村づくりをしたい」 ’
そう思ってやまなかった。 ’
そうこうしていると、庄内の大津留氏から、「御大将は宇佐の竜王城(りゅうおうじょう)
に避難する」と言う話を聞いた。 ’
鎮秀は、御大将について竜王城に行くか、狭間に残って挾間の土地や農民を守るか、悩
みに悩んだ。狭間を守るには、今すぐ帰らなければ、薩摩兵に土地も住民もとられてすべ
てなくなってしまう。最後には、先年、臼杵の丹生島城(にゅうじまじょう)に宗麟を訪ねた
際に、 ’
「鎮秀よ。お前は知恵も勇気もある武士じゃ。狭間を守ってよう戦え。困った時にはわし
が助けてやるぞ」と言ってくれたことを思い出し、狭間を守ろうという気持ちになった。
鎮秀率いる挾間軍一行は、大友の御大将と分かれて狭間に帰った。狭間に帰ると、すぐ
北方の妙見(みょうけん)神社に戦勝祈願のお参りをして、 ’
「妙見様、われらをお守りください」と祈った。 ’
権現岳城(ごんげんだけじょう)の戦い
高崎山城で御大将義統に別れを告げ、狭間の城である向原に帰った狭間鎮秀は、落ち着
く暇はなかった。薩摩軍が攻めてくることは、火を見るより明らかであった。 ’
向原の狭間城は、北側を黒川の崖に守られ、敵の侵入を防いでくれるとは言うものの、
東と西は開いていて、敵から守るのは難しいと思われた。 ’
必ず狭間を守る!という気持ちから、鎮秀は庄内の龍原(たつはる)にある権現岳城に立
てこもることにした。薩摩軍が挾間に入ってきたならば、家は焼かれ、村人も捕らえられ
るのは目に見えていた。鎮秀は、家族も全部連れて権現岳城に立てこもった。 ’
権現岳城は猿渡(さわたり)川に囲まれ、中心は小高い山状、回りの高さは五十メートル
もあろうかという絶壁で、敵軍の攻めにくい山城であった。敵が攻めてきても、この猿渡
川や岩の絶壁に阻まれて、山城に登ることは出来ない。とはいえ、敵は四千人こちらはわ
ずかに四百人だ。 ’
狭間方は一生懸命に、城を守る闘いの準備をした。 ’
鎮秀は、部下の馬場庄蔵・向井藤蔵・仲元寺甲斐之助・平野馬之丞・三ヶ尻長門・園田
六郎・二宮源助・宮崎大学、須美太郎右衛門・平井将監などに命じて、大木や大石を権現
山に運び上げさせ、戦の準備をした。 ’
島津軍は、直入・玖珠・大分郡方面から島津義弘を大将とした二万五千の軍が、海部郡
・大野郡・府内のほうからは島津家久が、二万余りの兵で攻め込んできた。 ’
権現岳城に攻めよせてきた島津軍は四千人と多く、権現岳西の龍原の野は、薩摩の兵で
真っ黒に埋めつくされた。対してこちらは四百人。勝敗は明らかのように見えた。 ’
敵軍は、ワーワーとときの声を上げ、何度も何度も城めがけて攻めてくる。こちらも城
から敵をめがけて矢を放ちつづけた。 ’
薩摩軍は猿渡川を渡ろうとするが、狭間軍は山の高いところから、渡ってくる兵めがけ
て矢を射るので、川を渡ることが出来ない。そこに狭間勢が切り込んで行き、敵兵を切り
つけた。敵兵の血で猿渡川の水は真っ赤に染まった。 ’
それでも何とか川を渡ってきた薩摩軍が権現岳を登りはじめると、鎮秀が待ってました
とばかりに合図をすると、狭間兵は登ってくる兵をめがけて、一斉に大きな石や大木を投
げ落とした。 ’
昼間攻めるのに失敗した薩摩軍は、こっそりと川を渡り、夜討ちをかけてきた。敵が明
日の夜、夜討ちをかけることが分かったとき、狭間兵は、権現岳城を取り巻く猿渡川を、
夜中に棒を持って渡り、ざぶざぶと大きな水音をさせた。その音に、狭間兵がやってきた
!と思った薩摩兵は、いちもくさんに逃げた。 ’
しかし、負傷するのは敵ばかりではなく、狭間側にも犠牲者が出た。重臣二宮源助は、
夜討ちをかけられた時に怪我をして、それがもとで戦死した。 ’
一ヶ月もの長い戦いが続いたが、勝負はつかなかった。 ’
四千人と四百人の戦いで、城がまだ落ちていないのは鎮秀の知恵であったし、それにも
勝る、狭間を守ろうとする鎮秀の情熱であったが、一ヶ月も戦っていると水や食量が少な
くなり、狭間の兵の中には具合の悪くなるものが多くなった。 ’
権現岳の西の賀須懸(かすか)ケ原にとどまって、狭間を攻めていた薩摩軍の大将新納久
将(にいろひさまさ)は、使いをよこして、 ’
「この戦はなかなか勝負がつかない。これ以上はお互いに犠牲が増えるばかりなので、一
応講和を結ぼうではないか」ともちかけてきた。 ’
「いいや、そんな事は考えていない。お断りする」と狭間は断った。 ’
すると薩摩は、「まずは話し合ってみようではないか」と再度言ってきた。 ’
「そんならどんな内容にするか条件を言ってみよ」 ’
「条件は、狭間氏の長男、塩松丸を人質に出すこと」 ’
「塩松様は、狭間の長男ぞ。大切な長男を人質に出すわけにはいかん。そちらも、薩摩の
大将である新納の長男を出すならそうしよう」 ’
「新納の長男は、鹿児島にいてここにはいない」 ’
「それなら、かわりに兵隊十人を人質として出せ」 ’
「そんな、人質として釣り合いが取れない講和は受けるな」と鎮秀は怒ったが、考えてみ
ると、大勢の薩摩軍に取り囲まれ、いつかは負け戦になりそうな気配ではあった。鎮秀は
しかたなく、講和を受けようと言った。 ’
塩松丸の代わりを人質として出すわけにはいかない。人質は場合によっては殺されるか
もしれない。鎮秀は、どうしようかと考えこんでいた。 ’
そのとき、二宮源助の弟庄次郎が、 ’
「私と塩松丸様は、ちょうど年かっこうも同じで、どちらがどうかわかりません。私を人
質に行かせてください」と申し出た。 ’
びっくりした鎮秀は、 ’
「お前の兄の源助はすでに死んでしまった。お前を行かせるわけにはいかない」と庄次郎
を抑えた。 ’
「私は、兄の敵討ちのつもりで人質に出たいのです。塩松丸様は狭間の大事なあと取りで
す。どうか私に行かせてください」 ’
「・・・そこまでいうなら、行ってくれるか。気をつけて行ってきてくれ、お前を見殺し
にするようなことはしない」と言って庄次郎を人質として行かせ、薩摩軍からは人質十人
を受け取って、上市の龍祥寺の横に人質を入れるおりを作ってその中に入れ、講和を結ん
だ。今後は一切狭間と薩摩軍は戦わないと。 ’
そのあとしばらくは、狭間氏と薩摩軍の間での戦はなく、穏やかな日々が続いた。とこ
ろが、この講和を結んだことを、遠く宇佐にいる武士たちの中には快く思っていない者が
いた。 ’
「狭間はおかしいじゃないか、薩摩を攻めると言いながら講和を結んで仲良くするとはけ
しからん。薩摩の味方になったも同じだ」 ’
「われらはこの宇佐まではるばる、大友の殿をお守りしてやってきた。そのために自分の
ふるさとは、薩摩軍に攻め取られてしまった。狭間氏はうまいことをしたものじゃ」 ’
「大友の御殿様、狭間氏は、薩摩に味方していることは間違いないです」 ’
「狭間は殿を裏切ったのです。裏切り者は征伐すべきです。このままでは、志気にかかわ
ります」 ’
「殿、思い切って征伐してください」 ’
首九つの贈り物
義統は、これらのことばを真に受け、 ’
「狭間氏は、なんと言うことだ。あのにくき敵、薩摩と講和を結ぶとはけしからん。もう
味方とは思わん」と激怒した。 ’
義統の周りにいた武将たちもこうなると、口を揃えて、 ’
「そうだ、裏切り者だ!」と言い出した。狭間氏はこうして疑いを受けるようになった。
この連絡を受けた狭間鎮秀は驚いて、 ’
「自分は薩摩の味方になったわけではないのに、疑われるのは残念だ」と悔しがった。’
なんとか御大将の誤解をといて、大友の親戚として仲良くしてもらいたいと思った鎮秀
は、主だった家来を呼んで、誤解を解くにはどうしたらよいか相談した。そして、あるこ
とを決めた。 ’
三月のまだ寒い朝、狭間鎮秀軍の精鋭三十名ばかりが、鬼瀬の陣屋の山の中腹にじっと
潜んで、薩摩の一軍が庄内から府内へやってくるのを待っていた。 ’
島津軍は、狭間氏とは既に講和を結んでいるので、狭間氏から攻められる心配はないと
安心しきっており、島津一軍は、久しぶりの平和な日々の中で、明るい表情で陣屋の山に
差しかかった。とその時、狭間氏の兵は無言で、一斉に飛び出し、斬りかかった。 ’
薩摩兵はびっくりして ’
「お前らは狭間の兵ではないか。おれたちは薩摩兵でごわすぞ」 ’
と叫んだが聞き入れず、鋭い目をして、薩摩兵に切りかかった。そして、狭間軍は島津兵
の首九つを討ち取った。 ’
「これでよし。宇佐の竜王城にいる大友義統様へのいい土産が出来た」 ’
「この薩摩兵の首九つをもっていけば、大将も島津に味方したのではないと信じてくれる
ことだろう」 ’
鎮秀は、宇佐の竜王城の大将へ九つの首を持っていった。 ’
「島津兵の首を取ってまいりました。狭間は殿を裏切るようなことはありません」 ’
「おお、そうか。よくやった。やはり狭間氏はわが味方じゃ」 ’
とほめ、感謝状もくれた。鎮秀の智恵により、狭間家と大友家が袂を分かつ危機は避けら
れたのである。 ’
しばらくすると戦の時代は、天下人豊臣秀吉の命により、大きく変化するときが来た。
秀吉の命令は、「薩摩軍は、自分の国である薩摩にすぐに帰れ。人質や捕虜にした人間
は全部もとの国に返せ」というものであった。挾間と薩摩は人質を交換していたので、お
互いに戦争をやめて人質を返す事になった。 ’
そのことで鎮秀には困ることがあった。それは人質の処置について、臼杵の丹生島城に
いる大友宗麟に、相談したところ、 ’
「どうでもよい。首をはねてしまえ」と言われたので、首をはねてしまっていた。返そう
にも人質はもう一人もいない。返す時も交換となると、大事なこちらの人質、二宮庄次郎
は返してもらえなくなる。 ’
果たして人質交換の日。鎮秀は、人質を返す交換の場に出て堂々と言った。 ’
「人質十人は台風の夜、雨の中を逃げ出した。おそらく薩摩のふるさとに帰ったのであろ
う」と、相手に伝えた。 ’
人質は返さず、こちらの人質である庄次郎だけ受け取って帰った。鎮秀は、このときも
皆から、知恵のある殿様だと尊敬された。 ’
ここまでは何とか鎮秀の知恵で切り抜けてきたが、ふるさとを出て、宇佐の竜王城まで
大友の御大将についてきた武将たちは、やはり狭間鎮秀のことを良く言わなかった。 ’
「なぜ、大将からはなれて、自分の国に帰った者が許されるのか」「ふるさとを捨てて、
こんな遠くまで来る事はなかった」「御大将が狭間氏を許すのはおかしい」「狭間氏は、
やっぱり、殿を裏切っていたのだ」と言うようになった。 ’
家来の武将から「狭間鎮秀を討つべし。そうだ討つべし」との声が大きくなり、御大将
の大友義統も鎮秀を追うことになった。 ’
鎮秀は、幾多の手柄を立てた人気のある武将から、一転して追われる立場の武将となっ
て、逃げなければならなくなった。そうなるといつも同じで、家来はだんだんよそに行く
ものが多くなり、もはや、昔からいた重臣だけとなった。 ’
鎮秀は数十人の家来を連れ、狭間を出発した。庄内の山の中を、狭間小挾間から柚木、
東山、ねじ山を通り、湯布院についたとき、追っ手が激しく攻めかかってきた。 ’
いよいよ最後かという刹那、鎮秀はいろいろなことが思い出されたのである。 ’
『自分はこれまで大友氏に対して一生懸命尽くした。ふるさと狭間の土地や人々を守るた
めに、身を粉にして働いた。日向の土持城では一番に城に乗り込んで城をぶん取った。宮
城戦の帰りには大切な弟を死なせてしまった。決して大友に背いて薩摩に加勢したことは
なかった。それをどうして、裏切ったなどというのか。もし、義統様が宗麟様のようなお
方であれば、自分のこの行動を分かってくれるはずだ』 ’
と残念に思いながら、大友の軍の攻め手の剣を防いでいる。無念の思いが、胸に突き上
げてきて、鎮秀には刀を握る手に力が入らなかった。 ’
ついに、多くの敵軍にとりかこまれ、不意に肩口を切りつけられた鎮秀は、がっくりと
前のめりに倒れ、無念の戦死をした。 ’
この時、天正十六(一五八七)年六月二日であった。 ’
狭間の人たちはこのことを噂に聞いて、 ’
「どうしてあの鎮秀様が殺されなければならなっかたのか」と嘆き悲しんだ。大友義統さ
えしっかりした判断を下せば、鎮秀は死ぬことはなかったと。 ’
今は湯布院と挾間に狭間氏の墓がある。 ’
供養塔に至っては、池ノ上の慶福寺(けいふくじ)・龍祥寺墓地・向原の光源地蔵庵と三
つある。それ程に、狭間鎮秀は尊敬される人物であった。 ’
文 挾間町歴史民俗資料館
館長 二宮 修二
戻る